3.11の時は俺は普通に過ごしていて、震災後は募金程度しか出来ませんでしたが、その分も兼ねて、熊本の震災の直後からJUGEMの方で「音楽で元気を」をスタートさせました。 俺のそのブログの人気記事ランキングを見る機会が先日あったのですが(普段使っている媒体では見られない)、TOP10の中に4つ程音楽の記事がランクインしていたので、俺のブログ記事の中ではある程度人気がある様で良かったです。 どの瞬間でも、自分に出来る事が何か一つでもあるなら、それを全力で行う事が必要なんだと思います。
自粛めいた空気に任せて活性を失うことよりも、みんなで笑顔を取り戻す為に笑って動いて、出来れば少しお金使って楽しくやって盛り上げて行くのがいいのでしょう。 何より今日、二人の対話読んで、あなたが永遠の高1である理由がわかってよかったです。
「あら、そうね。当時は何でも自粛ムードで、日本中の行事が中止されていたわね。あの頃から日本人の【不謹慎狩り】が始まったんじゃないかしら。残念ながらどんどん過激になっている気がするけれど、そんな事を気にしないで自分の楽しい事だけに集中出来る世の中になると良いわね」
あの日は知人のリリー賞の授賞式で、東京からの帰りでした。横浜駅からバスに乗って家に向かう途中に地震が起こり、ハザード付けて道の端に停まった市バスの運転手さんが、大きな揺れだとアナウンスしてました。家に着いてテレビをつけたら津波の映像が流れていましたね。それから1か月くらい、僕はある医療系のNPOの本部で現地に送る支援物資の仕分けとかやっていました。このコメントにオチはないです。
こういう災害での 不幸って どう解釈(気持ちの整理)して良いのか わからないです 言葉に出来ません…… 私は あの日 後輩とおばあちゃんの現場に入っていて 和室の天井竿を(廻縁に)彫ってました で ラジオもつけてなかったから その時は なんかすごくゆれたねって くらいの話ししかしていなくて 会社に帰って来て 他の人に大惨事のこの聞いて びっくりしたの覚えています ブログをはじめたのが 2011年の 1月30日だから はじめて一ヶ月くらい あの大惨事で なんかブログをupする気持ちになれなくて(こんな時に私の日常を書くのもどうかと思ったし かといって 私が被害者の方にエールを送るのも なんか失礼に感じて)一週間くらい休みました 私が公認会話士さんのところに遊びに行くようになったのは それから1年ちょっとあと だから その時公認会話士さんが どうされていたのか 私は知らないのだけど公認会話士さんの (アメ)ブログに その時の記事が残って?いて 自分達は 慌てず 普段通りに過ごさなければいけない みたいな事書いてあって とても(後からだけど)共感(と言うか 教えられたみたいな)しましたよ…… 私のところでも すごくゆれたたから やっぱり東京はすごかったんですよね?公認会話士さんは あの時 どうされていましたか?
「あら、そうね。何かしたいと思っても、何をしたら良いのか分からない、という人が多かったんじゃないかしら。計画もなくとにかく現地に行ってしまったりね。やはりある程度落ち着いて現地の人達の声が届くのを待つしかないのかもしれないわね。あら、東京もかなり揺れたわね。棚の物が落ちたり、屋根瓦が剥がれたりした家も結構あったんじゃないかしら」
あの日のことは忘れられません。直接の被害はなかったものの、なんか禍々しいというか、異様な何者かの「悪意」が感じられるような揺れ方でしたね。とんでもないことが起こった、というのはすぐに直感でわかりました。あれが自然の猛威というやつなんですね。
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3.11の時は俺は普通に過ごしていて、震災後は募金程度しか出来ませんでしたが、その分も兼ねて、熊本の震災の直後からJUGEMの方で「音楽で元気を」をスタートさせました。
俺のそのブログの人気記事ランキングを見る機会が先日あったのですが(普段使っている媒体では見られない)、TOP10の中に4つ程音楽の記事がランクインしていたので、俺のブログ記事の中ではある程度人気がある様で良かったです。
どの瞬間でも、自分に出来る事が何か一つでもあるなら、それを全力で行う事が必要なんだと思います。
「あら、そうね。個人でも何かしら出来る事はあるものね。どんな形でも風化させずに軽んじない事が重要かしら。楽しい事は余計な事を考えずに楽しみたいわね」
自粛めいた空気に任せて活性を失うことよりも、みんなで笑顔を取り戻す為に笑って動いて、出来れば少しお金使って楽しくやって盛り上げて行くのがいいのでしょう。
何より今日、二人の対話読んで、あなたが永遠の高1である理由がわかってよかったです。
「あら、そうね。当時は何でも自粛ムードで、日本中の行事が中止されていたわね。あの頃から日本人の【不謹慎狩り】が始まったんじゃないかしら。残念ながらどんどん過激になっている気がするけれど、そんな事を気にしないで自分の楽しい事だけに集中出来る世の中になると良いわね」
あの日は知人のリリー賞の授賞式で、東京からの帰りでした。横浜駅からバスに乗って家に向かう途中に地震が起こり、ハザード付けて道の端に停まった市バスの運転手さんが、大きな揺れだとアナウンスしてました。家に着いてテレビをつけたら津波の映像が流れていましたね。それから1か月くらい、僕はある医療系のNPOの本部で現地に送る支援物資の仕分けとかやっていました。このコメントにオチはないです。
「あらそう。幸か不幸か、そういう事があった日というのは物凄く詳細まで記憶している人が多いんでしょうね。新たな記憶に上書きされない事を願いたいけれど、準備は怠らないようにすべきかしら」
こういう災害での 不幸って どう解釈(気持ちの整理)して良いのか わからないです 言葉に出来ません……
私は あの日 後輩とおばあちゃんの現場に入っていて 和室の天井竿を(廻縁に)彫ってました で ラジオもつけてなかったから その時は なんかすごくゆれたねって くらいの話ししかしていなくて 会社に帰って来て 他の人に大惨事のこの聞いて びっくりしたの覚えています
ブログをはじめたのが 2011年の 1月30日だから はじめて一ヶ月くらい あの大惨事で なんかブログをupする気持ちになれなくて(こんな時に私の日常を書くのもどうかと思ったし かといって 私が被害者の方にエールを送るのも なんか失礼に感じて)一週間くらい休みました
私が公認会話士さんのところに遊びに行くようになったのは それから1年ちょっとあと だから その時公認会話士さんが どうされていたのか 私は知らないのだけど公認会話士さんの (アメ)ブログに その時の記事が残って?いて 自分達は 慌てず 普段通りに過ごさなければいけない みたいな事書いてあって とても(後からだけど)共感(と言うか 教えられたみたいな)しましたよ……
私のところでも すごくゆれたたから やっぱり東京はすごかったんですよね?公認会話士さんは あの時 どうされていましたか?
「あら、そうね。何かしたいと思っても、何をしたら良いのか分からない、という人が多かったんじゃないかしら。計画もなくとにかく現地に行ってしまったりね。やはりある程度落ち着いて現地の人達の声が届くのを待つしかないのかもしれないわね。あら、東京もかなり揺れたわね。棚の物が落ちたり、屋根瓦が剥がれたりした家も結構あったんじゃないかしら」
震災3年後でも被災地の沿岸部の
夜には人家の明かりが無く、この
死んだような街を生き返らせるには
僕が移住してくるしかないんじゃないか、とすら思われました。
「あらそう。人や家だけでなく店や雇用もないと中々難しいものね。いつか人が戻るのか、何か画期的な利用法を誰かが思い付くのか、のどちらかしらね」
そう。結局移住してないんです。
おはようございます。
ブログも続けると5年ぐらい
あっと言う間に経ちますね。
「あら、そうみたいね。ここは後どれくらい続くのかしら。近いうちにFC2ブログの過去の会話もこちらに移動させようかと計画しているみたいだけれど、双方が大いに揺れるのかしらね」
あの日のことは忘れられません。直接の被害はなかったものの、なんか禍々しいというか、異様な何者かの「悪意」が感じられるような揺れ方でしたね。とんでもないことが起こった、というのはすぐに直感でわかりました。あれが自然の猛威というやつなんですね。
「あら、そうね。都内の人も大いに動揺して、必要ないものまで買い占めたりしていたものね。人間の心が揺れなければ2次災害にはならないと思うけれど、その教訓は果たしてどれくらい人々の心に残っているのかしら」