翌日から、母に言われたアドバイスを頼りに試行錯誤する日々が始まった。
作業自体はとても簡単だけれど、少し身体を使うので体力を消耗する。
それにしても暑い。
暑さ寒さはほとんど感じない体質だけれど、流石にこの暑さは感じる。
うだるような暑さ。
「うだる」とは「茹だる」という意味だ。
文字通り身体中の水分が、血液が沸騰してしまいそう。
涼しい部屋の中で30桁の計算や、複雑怪奇な化学式を解いている方が私には向いている。
でもこれは私が勝手に自分で選んだアイディアを実践しているだけで、誰にも文句は言えない。
彼には会うたびに文句を言うようにしているけれど。
そんな無理を続けた結果、私は彼の前で眩暈を起こし、倒れてしまった。
この私が熱中症だなんて、全く笑えない。
でも少しフラついた程度で、そこまで深刻な状態ではなかった。
しかも意外な事に彼の対応が早く的確で、私はすぐに口を利ける程度には回復した。
少しは身体も動かせた。
そう、彼の手を払いのけるくらいに。
もちろん彼に触れられるのが嫌なわけではない。
初めてだったから。
彼はまだ私の手しか触れた事が無い。
本当はもっと触れて欲しいけれど、だからこそ私はずっと我慢してきた。
私の顔に初めて触れる時は、もっと相応しい時であって欲しい。
こんな意識が朦朧とした状態で初めてを許すなんて……
そんな勿体無い事が出来るはずがない。
ベンチに寝転がる私を覗き込む彼の表情を、薄目を開けて窺う。
なんて心配そうな表情。
泣きそう、というよりも死んでしまいそうな、どちらが体調が悪いのか分からないような表情をしている。
見たいけれど見たくない。
そんなどっちつかずの、アイスクリームにコーヒーをかけたような、甘くて苦い、冷たくて温かい気持ちがした。
私を心配してくれるのはつい口元が緩んでしまいそうなくらいに嬉しい。
でもこんな表情をさせてしまった事についてはとても辛い。
こんな優し過ぎる事を考えるなんて、我ながら腑抜けたものだと思う。
素直ではない私は全く体調が悪くないフリをして、彼を怒らせてしまった。
こういうのを喧嘩と言うのだろうか。
初めての事で面食らう以上に、彼に嫌われてしまったかもしれないという恐怖で、私の口は全く動かなかった。
すぐに謝れば良かったのかもしれない。
本当は暑くて辛かったけれど、心配してくれるのが嬉しかったけれど、素直に辛いと、素直に嬉しいと、そう言う事が出来ない性格なだけだと、正直に言えればどれだけ良かった事か。
家に帰ってから再び気分が悪くなってしまった私は、それから数日間寝込んだ。
体調だけなら翌日にはもうとっくに回復していたはずで、きっと心が倒れたままだったのが原因だと思う。
その間、庭での作業をしてしまうと寝込んでいるのがウソになってしまうので、母に代わりにやってもらった。
数日後、見舞い客が来た。
ベッドで横になっていると、突然部屋のドアが開いた。
「おーい、ミニーちゃん、起きてるー?お客さんだよー。玄関に待たしてるけど、通しちゃっても良いよね?」
ちなみに5、6歳の妹が部屋に来たわけではない。
既に40歳近い母の、軽率で軽快な言葉だ。
私の返事を聞く前に、階下に行ってしまった。
ついに彼が来たのだろうか。
何日待たせるつもりなのか、腹立たしい。
翌日に、いえ、喧嘩別れをした当日にやってこないなんてあまりにも酷い。
そんな強がりも、会えない今は虚しく響くだけ。
そもそも毎日メールを送ってきたクセに、それまで無くなってしまっている。
彼が本当に怒っている証拠だ。
今まで一度も返信した事なんて無いけれど、今なら私だってひょっとして返信してしまうかもしれないのに。
自然消滅。
そんな言葉がずっと頭にこびりついて離れなかった。
きっとこういう問題は一度期間が空いてしまうとどんどん気まずくなって、結局は会わなくなってしまうのだ。
それ以前に会っていた頻度が高ければ高いほど、会わない気まずさは増す。
毎日会っていた私達にとっては、一日空いてしまうだけでも由々しき事態となる。
旅行や家庭の事情や、会えない理由があるなら問題はない。
会えるのに会わないのが問題なのだ。
それは「会いたくない」と言われているのと同じだから。
だから、怒っていても、気まずくても、すぐに会うべきだった。
ずっと傍に……いなければいけない二人。
そうしなければ保てない関係。
私の欠片集めはまだまだ全然足りてなくて、それを思い知らされて悲しくなる。
会えないのが寂しいとか、会えないのが辛いとか。
そんな事は、わざわざ考えて確認するまでもない。
彼と離れて過ごす私がそう思うのは当たり前だから。
階段を上がって近付く足音が、とても怖い。
とても嬉しくて、とても怖い。
会いたいけれど会いたくない。
今まではどんな風に彼を攻撃していただろうか。
そうすると彼をまた怒らせてしまうだろうか。
記憶力が良い。
自他共に認める私の能力。
でも楽しかった記憶には全て霞がかかってしまって、詳しく思い出せない。
唯一鮮明に思い出せるのは、彼が怒鳴った時の怖い表情。
どうすればまた霞んだ思い出の中へ行けるのか、私には分からない。
いつものようにふざけている様子を演じていたハイジも、最後には何かを考え込むような表情で帰っていった。
その翌日、再び見舞い客があった。
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