今日も会社ではどこか心ここにあらずな状態で過ごし、失敗や反省を繰り返しながら終業の時間を迎え、慌てて会社を後にした。
子供の頃に誰よりも早く教室を後にしていた俺の身体は、意外とまだ衰えてなかったらしい。
普段より速度が遅い気がする電車に10分ほど揺られ、マンションの最寄り駅に到着すると、普段は見掛けない恋人達や家族連れなどが通りを賑わせている。
朝と同じひんやりとした空気の中に漂う、朝とは全く違う表情をした人達。
イルミネーションに負けじと、全員がギラついているように見える。
昨日はまだちらほらだったが、今日はもう大漁に水揚げされた魚のように溢れ返っている。
朝と同じ表情のままの場違いな俺は、競歩の選手ではなく、突然テレビ画面に映り込んでしまったADのように早足でクリスマスの喧騒をすり抜け通り抜け、一軒のディスカウントストアに飛び込み、一つの商品を購入して、そこから先はもう駆け足でマンションへと急いだ。
階段にしようか迷ったが、ちょうど1階に止まっていたのでそのままエレベーターに乗り、部屋の前まで来た。
301号室のドアは今日も無機質で、どんな世界と繋がっているのかを教えてはくれない。
焦りながら鍵を開け、ドアを少し開くと、チェーンはされてなかった。
真っ暗な部屋が目に入り、一気に不安になって思い切りドアを開けた。
「アンナー?」
言いながらキッチン兼玄関の電灯のスイッチを点ける。
4歩先の部屋の中は真っ暗なままだ。
部屋からは何も聞こえず、冷蔵庫のモーター音だけが小さく響いている。
脱ぎ捨てるように靴を脱ぎ、部屋のドアを開ける――、
無い。
何も無い。
積み上げられたプレゼントも。
ここにいるはずのアンナも。
目の前に広がるのは3日前までの日常。
ベッドとテーブルとテレビとノートパソコンとカラーボックス。
俺が見たかった物は何も無い。
ここまで走ってきた影響なのか何なのか、一気に呼吸が苦しくなり、心臓が握り潰されたように痛み出した。
視界の先ではカーテンが風に揺れていて、窓が完全に開いている。
ベランダの向こうは、雲が出てるわけでもないのにろくに星が見えない夜空。
容赦なく吹き込む冬の冷たい空気に怯む事なく、ベランダに駆け出た。
下を見ても右を見ても左を見ても前を見ても、念のために上を見てもアンナの姿は見えない。
ベランダの柵を拳で叩いた。
くそっ。
何で……何でだよ!
まだここにいる、って言ってたじゃないか。
【俺が帰宅するまで】って意味だと思わず、ほんの数時間程度の意味で答えたんじゃないだろうな、アンナのヤツ。
それにどうしてこんな時間にプレゼントを配りに行くんだ。
まだ子供だってしっかり起きてる時間じゃないか。
人間にバレないように行動するのがサンタ、って言ってたのに。
ベランダから部屋に戻り、念のためユニットバスを確認したが、そこにもアンナはいなかった。
一気に疲れが出て、重い足取りで部屋へと戻った。
テーブルの前に座ると、誰も寄り添ってないのに何故か身体が重い。
寒さに身体がブルッと震えた。
改めて見ると、窓が全開のままになっている。
立ち上がるのも億劫なくらい身体に力が入らないが、このままでは心も身体も寒過ぎるので、仕方なく立ち上がり、窓に手を掛けた。
「きゃああああああーーー!!」
窓の外、上の方から甲高い女性の悲鳴が聞こえ、慌ててベランダから身を乗り出して上空を見上げる。
ろくに星も見えない夜空に、何かが飛んでいる。
ソリだ。
2頭のトナカイに引かれて空を飛ぶソリが見える。
しかし誰も乗ってない。
15階建てのマンションの屋上よりももっと高く、100メートル以上はありそうな上空で、サンタの格好をした女性が、どんどんソリと離れ落下してきているのが見えた。
「あ、アンナ?くそっ!」
考えている時間なんてない。
脊髄反射でベランダの柵に足を掛け、凶悪な速度で落下してくる女性を受け止めるために、ベランダの外へと躊躇う事なくジャンプした。
何がどうなったのかも分からない物凄い衝撃を全身に受け、上手く抱き受ける事が出来ず、そのまま二人で落下。
思考を言語化している時間なんて無かったが、ただ【俺がクッション代わりに下になる】という映像的なイメージだけを意識していた。
「ダメーーーーーー!!」
ドンッ!
玄関側が大通りに面しているのと違い、ベランダ側は下が住民用の駐車場と駐輪場になっている。
俺と女性は駐輪場付近の植え込みに落下した。
「ううう、いっ、つつつつつつ」
腰から背中にかけて激痛が走るものの、どうやら生きているらしい。
何とか上半身を起こす――、
「なっ!何で!?」
俺の身体の下に、うつ伏せに人が倒れている。
サンタの格好をして、苦痛に顔を歪めている。
確かに俺が下になったはずなのに!
「アンナ!アンナ!」
すぐさま抱きかかえ、仰向けにして膝枕のように横たえた。
土がべっとりとついた左頬は血が滲んでいるようにも見える。
「ううーん」
「アンナ!?大丈夫か!?」
周囲は真っ暗で、人っ子一人いなくて、いくつかの部屋から漏れ注ぐ明かりと月明かりしかない。
それなのに、アンナはまるで真夏の太陽を裸眼で直視しているように険しい表情で薄っすらと目を開けた。
「まどっち……大丈夫だった?」
「ああ、俺は全然大丈夫だ」
「良かった……ちょっとだけ昔の力、使えた」
「昔の力?」
「うん、羽で、まどっちの下に入って……」
確かに俺がアンナの下にいたはずなのに、最後の最後、地面に叩きつけられる瞬間に体勢を入れ替えたというのか。
「もう、折れちゃった、けど」
アンナは目を閉じ、力なく微笑んだ。
暗いし慌てていたのでよく分からなかったが、確かに俺とアンナの近くに、根元から折れた白い天使の羽根のようなものが2つ転がっている。
俺が視認した瞬間、叩きつけられた粘土細工のように粉々に砕け散り、光に包まれ跡形もなくなった。
嫌な記憶が一瞬にして甦った。
「アンナ。どこか痛むところはあるか?痛かったらもう話すな」
「あはは、初めてだから、落ちちゃった……」
「……ずいぶん乱暴なソリなんだな」
「ううん、ソリはあっちに、帰ろうとするから、私はまだ、まどっちの近くにいて、守らなきゃ、って言ったら、振り落されて」
「俺を守る?」
「うん、それで、まどっちの、部屋に、来たはず、だから」
「………………」
「追試……私に、守りたい人が、守れるか、どうか」
これはもしかして、アンナが何度か言っていた【部屋にまどっちがいた理由が何となく分かった】の詳細なのだろうか?
俺はてっきり、神様とやらがサンタになったアンナを俺に見せるためにした事だと思っていたのだが……。
でもどうやら真相は全く違うのかもしれない。
俺の命を守るのがアンナの使命……?
俺はこの自分の部屋で死ぬ運命だったって事なのか?
だからアンナはわざわざ俺が仕事中の時間を狙ってプレゼントを配りに行ったのか?
――死なない?
――失敗しちゃったかと思った。
アンナの言葉を思い出す。
でも、俺の命なんか助かったところで……、
「まどっちが、死ななくて、良かった……願いも、叶えられて、良かった」
アンナがいなくなったら何も意味が無いじゃないか。
「アンナ、死なないよな?」
問い掛けに対して再び目を開いたアンナ。
真っ青だった瞳は輝きを失い、灰色にくすんでしまっている。
身体のところどころが渇いた紙粘土のように剥離し、こちらは逆に光を放っては消えていく。
「あはは、ダメかも」
何でだよ。
お願いだ。
死なない!って言ってくれよ。
どうすれば良いんだ。
「なぁアンナ。俺、まだ願いを叶えてもらってないぞ」
「ほえ?でも……」
「アンナが叶えたのは子供の頃の願いだ。今は違う。それも叶えて欲しい」
「でも、もう、私……」
アンナの全身が光に包まれた。
「もういい、話すな。直接受け取ってくれ」
光と混じり合って消えていくアンナの唇に唇を合わせた。
アンナが貯金箱だった時、ずっと俺の心の声が聞こえていた、と言っていた。
だったら、この願いもアンナの心に直接届いてくれ。
俺が欲しいのは――――――。
唇の感触が消え、腕が抱えていた重みが消えた。
周囲は暗闇に包まれ、アンナの姿は小さな欠片一つ残されていない。
「アンナ……」
くそっ!
今回は絶対に壊さない、って決意したのに。
俺が自ら壊してしまうなんて。
「聞こえたか?アンナ。俺の願い」
ついさっきまでアンナがいた目の前の空間に話し掛けた。
返事は無い。
重みも感じない。
光る事も無い。
「おい、聞こえるか?神様とやら。あんた、どこかで全部見てるんだろ?頼むから俺から何もかもを奪わないでくれ」
薄ら明るい月を見上げながら呟くと、俺の視線から隠れるように、どこかからやってきた黒い雲に覆われて見えなくなった。
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