ある少女の独白
世の中というのは広いもので、必ずしも今私がいる場所が全てではない。他の世界なんて存在しないような気がしてしまう時があるけれど、世の中の全ての人がそれぞれ別の世界を持って生活している。世界同士が交わる時もあるし、全く交わらずに終わる時もある。
今誰かが私と会話をしているという事は、その誰かは私の世界に触れてしまっている状態。人によっては私の世界に入り込んでしまう事もあるのかもしれない。
それはとても凄い事。
他人の世界というのは、絶対に、100%、苦くて口に合わない。他人の世界に私の居場所なんて無い。
一方で自分自身が持つ世界はとても甘い。甘くて甘くて優しい世界。中にはそう感じる事が出来ず、自分の世界こそが苦くて息苦しい場所だと思い込んでいる人がいるけれど、それはそもそもの考え方が間違っている。
他の人の方が幸せに見えるとか、他の人が持つ世界の方が私の世界より甘そうだとか、そういう事を言っているのではない。
自分の世界と他人の世界、どちらが居心地が良いか、という話。
でも人は甘い世界だけでは飽きてしまう。人が一人では生きられない、というのはきっとそういう事。タバコを吸うように、コーヒーやビールを飲むように、苦い他人の世界と接して、口直しをしなければならない。
周囲の人達はそんな風に、比較的苦くない、何だったらクセになるような苦さを持つ人と出会って、友人になったり恋人になったりしていた。
でも残念な事に、私にとっては誰もかれもが毒のようにただ苦いだけで、全く口に合わなかった。
それでも私は、比較的苦くない、味わっているうちにクセになってしまうような、また味わいたくなるような、そんな苦味を持っている人がどこかにいるかもしれない、とほんの少しだけ期待していた。
それは私の友人になる人かもしれないし、恋人になる人かもしれない。
私はその人にとって毒かしら?それともコーヒーかしら?
今までの私は常に毒であり続け、他人は私の毒であり続けた。むしろ進んでそうしていた。お互いの毒を薄めて近付いて、誤解する事の無いように。
もしそんな私の世界に入り込んで居心地が良いと感じてしまう物好きがいるとしたら。
もしそんな物好きの世界に入り込んで居心地が良いと私が感じたとしたら。
何かが私の中で変わるかもしれない。
高校に入学して以降、本当に腹立たしい男子がいる。腹立たしい特徴を挙げたらキリが無いけれど、何を言っても全く引き下がらないところが腹立たしい。会話が趣味、なんて言うからほんの少し、ミジンコ半匹分くらい興味を持ったけれど、間違いだったのかしら。
どれだけ攻撃しても、どれだけ毒の牙で噛み付いても、彼はまた私と話そうとする。全く効果が無い。一度私の世界に触れれば二度と近寄ってこない人間しかいないと思っていたのに。どうして離れていかないのかしら。腹立たしい。
腹立たしいところは更にある。それは最も腹立たしい事。
もしかすると私の世界には彼の居場所があり、彼の世界にも私の居場所があるかもしれない事だ。絶対に相容れないはずの他人の世界なのに。本当に腹立たしい。何が腹立たしいって、もしそうなればとても嬉しいと思っている私の心が何より腹立たしい。
私は「恋愛」なんてありきたりで使い古された枠の中になんてハマらないし、そう簡単に私の世界に踏み込ませたりもしない。身体に入ってしまった異物を食道や胃が押し戻すように、私も会話という防衛システムで彼を押し戻し続けてやるわ。
それでも本当に私の中に入ってくる事が出来るのなら、その時は世界の境界線なんて消してしまって、二人にとって共通の、一つの世界を作り出してしまう事が出来るのかしら。
夏休み間近、腹立たしい事に彼が遅刻をしてきた。理由は分からないけれど、どうせ間抜けな寝相で身体でも冷やして夏風邪を引いたに違いない。
病気だなんて腹が立つ。試験勉強の時にお互いの家は訪問していたから、どこに家があるのかは知っていた。腹が立つから私も早退して家まで押しかけてやろうかしら。腹が痛くて早退が出来るのなら、腹が立って早退してしまっても問題ないはずだもの。いえ、むしろバカみたいに風邪を引いて片腹痛い状態なのだから立派に早退する理由になるわ。
そう思っていたら彼が登校してきた。しかも廊下で女生徒と会話をするといういかがわしい行為に及んでいたなんて失礼な。全く腹が立つ。二度とこんな事が無いように、彼の夏休みを全て私のものにしてやらなければ気が済まない。これは嫉妬でも何でもない。他の全ての人類のために、私が一肌脱がなければならない。
腹が立つ。彼の夏休みを全て私の物にしてやろうと思ったら、私の夏休みが全て彼の物になってしまった。結果としてそうなるのは当然だけれど、精神的には腑に落ちない。もっと泣きつくように私にお願いするような展開になるはずだったのに、何がどうして途中で少し優しくしてしまうのかしら。それが本当に腹立たしい。
彼の事が好きだから、なんて事はありえない。でもこんな風に思う時点で、ただ必死に抵抗して真実が見えなくなっている子供みたいでとても惨めだ。
そしてこの日の放課後、私は白い制服の女生徒を見た。
風のようにヒラリと前を歩いていて、彼はひょっとしてあの子の事を言っていたのかしら、と思った時にはもういなくなっていた。
私が彼を好きだと認めてしまいたくなかった日。だからあの子を初めて見かけたのがいつなのか、よく覚えている。