庭に倒れていた彼をハイジと二人で縁側に担ぎ上げ、横たえた。
彼の顔は赤く、身体は熱く、汗は出尽くしているようだった。
私とハイジの適切な処置のおかげで、彼は大事には至らずに済んだようだ。
でもそうなると次の問題が出てくる。
一難去ってまた一難。
そもそも私は彼に会いに来たはずだけれど、何となくこのままの状態で彼が目を覚ますまで待っているのが妙に恥ずかしくなってしまったのだ。
間違いなく私が看病した、というこの状況が恥ずかしい。
しかも、私が熱中症のふりをしたのが原因で喧嘩になったというのに、今度は彼が熱中症になってしまっている。
こんな状況で彼が目を覚ますまでここにいると、きっと私はまた憎まれ口を叩いてしまう事だろう。
とか
とか。
そんな事を言えば、また喧嘩になってしまうかもしれない。
でも私は素直になれない。
【大丈夫?】とか【どれだけ心配したと思ってるの】とか。
そんな言葉を掛ける事が出来ない。
いつの間にか彼の手を握っていた私の手を、彼が握り返してきた。
うめき声も聞こえてきた。
そろそろ意識が戻るのかもしれない。
ハイジは納得していない表情だったけれど、その場に残ってくれるみたいだった。
私が門扉から出て、駅に向かって歩き出した瞬間、背後で彼の声が聞こえた。
全く、危ないタイミングだ。
待ち合わせ場所に戻り、少し経つと彼がやってきた。
彼の性格を考えると、本来ならば遅れて申し訳なさそうな表情をしているはずなのに、何やら少し嬉しそうなのが気になる。
ひょっとしてハイジが何かを言ってしまったのかも知れない。
その表情を見ていたら、何だか色々と気を張っているのがバカらしくなって、再び心が軽くなった。
ハイジは何も言わなかったらしいけれど、彼は私が看病していた事に気付いていたようだ。
ひょっとしてもう意識が戻っていたのかもしれない。
何故気付いたのか、明確な理由が私には分からなくて、ちょっと悔しい。
明日、彼を私の家に誘おうと思っていたら、反対に誘われた。
付き合い始めて1年なんて、彼はもう忘れているかと思ったけれど、何かをするつもりだろうか。
会う約束さえすれば、私からはもう誘わなくて充分。
彼の家に行った後、私の家にそのまま行けば良い。
翌日、8月31日。
朝早く彼の家に到着すると、彼は庭にいた。
門扉の前にいる私を目ざとく発見する。
手招きされるまま、門扉を入り、玄関ではなく庭へと進む。
昨日もそうしたはずだけれど、慌てていたので覚えていない。
その事実に私は慌てた。
彼が相手だと、私は落ち着きを、記憶を失う時がある。
この私が何をしたか覚えていないなんて。
ひょっとして取り乱した姿をハイジに見られてしまっていただろうか。
ハイジに弱みを握られるのは何かと都合が悪い。
近いうちに何とか上手に訊き出して、場合によっては口止めを……
彼が指差す先を見る。
花。
花だ。
疑いようもなく。
見まがう事もなく。
まさに視界が花やぐ美しさ。
それはそれはたくさんの花だった。
赤とか白とかピンクとか。
黄色とか青とか紫とか。
小さいのとか大きいのとか。
赤土色のレンガで縁取られた、1m×3mほどの長方形の花壇の中にひしめくように咲いている。
彼はこれを私に見せたかったというのか。
なんという事だろう。
私は花には詳しくない。
ただ、この花壇にある花は全部知っている。
普段聞いた事のないような花まで全て。
ヒマワリ
アサガオ
トケイソウ
タチアオイ
キキョウ
サルビア
ギボウシ
そしてセンニチコウ。
ヒマワリなど、既に花もしぼんでしまっているけれど、つい先日まで咲いていたのだろう。
重要なのは咲いているかどうかではなくて、何を育てたのか。
その理由は、これから彼が説明しようとするに違いない。
花にはそれぞれ花言葉がある。
ヒマワリは
「憧れ」とか「熱愛」とか。
アサガオは
「愛着」とか「愛情の絆」とか。
トケイソウは
「聖なる愛」とか。
タチアオイは
「単純な愛」とか「熱烈な恋」とか。
キキョウは
「優しい愛情」とか。
サルビアは
「尊敬」とか「恋情」とか。
ギボウシは
「変わらない想い」とか。
思わず言葉を失ってしまった。
センニチコウの花言葉。
「不変の愛」とか「不滅の愛」とか。
もちろん知っていた。
他の花の花言葉を知っていて、センニチコウだけを知らないなんて、子供騙しのウソもいいところだ。
でも彼の口から言って欲しくて、直接聞きたくて、私は知らないふりをした。
想像していた通りの言葉を聞いただけなのに、私の頭は真っ白になってしまった。
縋るような視線を向ける彼に、今の私に出来る最大限の感想を伝えたいと思う。
言葉ではなく行動で。
私は何も言わずに、彼の左腕に右腕を巻きつけ、抱き締めた。
いわゆる【腕を組む】という形。
世の恋人達にとっては至極ありふれた、でも私達にとっては究極に進歩した、その位置関係。
もしくはこれは進歩ではなく退化なのか。
優しさを、感情表現を、恋心を、愛情を。
それらを全て排除して、一人で生きるための進歩を、進化を続けてきたはずの私。
そんな私の、劇的な退化。
彼の傍にいる限り、きっと私は退化し続ける。
一人で生きていける私はいなくなり、彼なしでは生きられない私が出来上がる。
中途半端が嫌いな私は、もういっその事、この世の誰もが持ち得なかった、究極の愛を手にするまでに退化してしまおう。
私は彼のヒジの裏、要するに注射針を刺す辺りに、左手の親指の爪を立てた。
何故そうしたのかは分からない。
たかが【腕を組む】という行為だけでこの大騒ぎ。
でもそれこそが私達で、私のしたい事。
全ての初めてを、全ての出来事を、何よりも、誰よりも、印象深く、思い出深く。
二人の間には軽い出来事など一つも無い。
ただ、愛しさが溢れてしまって、一気に深く、段階を飛び越えて進んでしまいたい時もある。
でもそこをぐっと我慢する。
私はまだ欠片を集めているから。
本当に小さな、些細な欠片も残さず全て集めたい。
何があっても二人の関係が壊れないように。
【信頼】という名の欠片で、私の最初の絵が完成する、その日まで。
見飽きた、というか見慣れた花達。
そう、もったいぶらずにはっきり言ってしまうと、私の家の庭の花壇にあるものと同じ。
私が彼に見せようと思って、ここ数日間育ててきた花と同じ。
この花達のおかげで熱中症にもなったし、彼と喧嘩になったりもした。
私も同じだもの。
母の園芸の趣味をこの夏は受け継いで、手伝っただけ。
私の母と彼の母親の趣味が偶然一致していたのか、園芸が趣味の人にはお馴染みの花達なのか、それは私には分からないけれど、私と彼は見事に同じような花ばかり育てていた。
では何故彼の花壇が50点なのか。
ただ一つの違い、【レンゲソウ】。
これは私の母も育てていなくて、私が一から土を耕し、腐葉土や堆肥を混ぜ、種を植えた。
乾燥に弱いレンゲソウは毎日の水遣りが必要不可欠で、私が寝込んでいる間も母が水をあげてくれていた。
今はようやく小さな小さな芽が出た程度。
当然この記念日に花を咲かせるのが間に合わない事は分かっていたけれど、それでもあえて私は植えた。
順調にいけば来年の春には花を咲かせる事だろう。
まだ彼は何も察していない様子だし、きっと私の花壇を見たら驚く事だろう。
まさか二人して同じ事を考えていたなんて。
ただ私は、【熱愛】とか【恋情】とか、花言葉としてはありきたりな物には特に興味を持たなかった。
確かに言われたら嬉しくて、大切な記憶として残しておきたい言葉ではあるけれど。
でもそれらの言葉は、どこか独善的で、独りよがり。
相手の気持ちなどお構いなしに、一方的に自分の想いを宣言しているような、その想いを寄せられている相手の顔が第三者からは見えないような、ピンと来ない言葉だと私は感じた。
だから私の今の気持ちに最も近いレンゲソウを植えたのだ。
それは相手がいるからこそ成立する花言葉。
その花言葉に、私の彼に対する想いの全てが込められている。
終わり
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